01-01 少女と森

少女と森-鋼鉄のレムルス

近づいてみれば、圧倒的な緑だった。
その全てが草であり、葉であり、苔であることが、俄かには信じられない。
少女が育った山岳地帯において、緑は点在すらしない、貴重な景色だった。
極まれに、地表へと顔を出した植物は、逞しさと幸運の象徴ですらあった。
だからして、少女の細く、未成熟な肢体には、芽の成長を模した文様が泥土で描かれていたのだが
この場所に辿り着くまでの過程で身体を酷使し、汗を幾度と無く湧き流した事で、泥土の文様は薄くなっていた。
少女は、森と呼ばれる自然の入り口に、生まれて初めて足を立てているのだが、感慨は無い。
耳を覆いたくなるような、数えきれない鳥類の鳴き声。
頑強な木の幹たち。
真昼にも関わらず、どこまでも続く緑の闇。
負けるものか。奪われるものか。
少女は少女の事情により、自らは狩られる側で無いと、奮い立たねばならなかった。

目の良い少女であるから、果実と思われるものは、いくつも簡単に見つけられた。
だが、どの果実も少女の背より何倍も高い場所に実っていた事が、問題となった。
木の樹皮へ実際に触れると、見た目以上に滑らかで、爪も立てられない。
足元に落ちている木の枝を幾度と無く投げつけたが、目標に命中しても落ちる気配は無い。
もっと低い位置に実っている果物を。手の届く位置にある食料を。
森の奥へと足を進める少女は、既に日が暮れ始めていることに、気がつかなかった。
自分より背の低い草の道を選び、搔き分ける。
木や高低差に阻まれれば、来た道を戻る。
それを交互に繰り返すうちに、帰路の方角は朧げになっていった。
木々の影が濃くなり、目が闇に慣れ始めた頃。
少女は、自身がようやく焦らなくてはならない状況である事に気がついた。
いつの間にか、小動物らの鳴き声は途絶えていた。
日が間もなく落ちる。
潜まなければならない。
生ぬるい風に顔を撫でられると、べっとりとした汗で張り付いていた髪が一房、少女の頬から剥がれた。
死者の時間が始まろうとしていた。

背の倍は高く伸びた草むらに身を隠し、周囲を伺う。
かすかに聞こえる足音。唸り声。
既に腐臭は、はっきりと鼻腔で感じられる。
何の準備も無く、夜を迎えるのは少女にとって初めての体験だった。
激しい自己嫌悪に眩暈がした。
両頬を叩き、目を覚ましたい衝動が芽生える。
また、「彼ら」は物音に敏感である以上に、生者の匂いに引き寄せられる。
身体に塗る香り消しの泥土は、既に底を尽きかけていた。
夜を越えるために、穴を掘るか見つけるかしなくてはならなかった。
地面に這いつくばり、迂闊な自らの頬を叩く代わりに、拳を強く握りしめる。
鋭い爪が手の平に突き刺さると、いともたやすく出血したように思えた。
一かけらも登られなかったあの木の幹と比べれば、自分はなんと弱く、脆いのか。
微動だにせぬまま、己を責める感情だけで、少女の目はかすかに赤く、充血していった。
その視界に、闇夜でも明確に輝く、赤い塊がいくつも映った。
少女がその、スイートベリーの群生を見たのも、初めての体験であったが、暗闇でも明らかに果実である生命の輝きだと分かった。
乾ききった口内に唾液が沸き、怒りで忘れていた、空腹と疲労に全身を支配される。
十歩も這いずれば届く距離に、瑞々しく大きな実が三つ、四つ、いやもっと。
今は動けない。しかし、食べねば体力がもう、もたない。
いや、そもそも、こんな場所で夜を越えられるわけが無い。であればいっそ、果実の味を確かめた後に、死者の餌食になっても良いのではないか。
(…………ペロが、私を待っているのに?)
少女は、自暴自棄な考えを思いついてしまうほど、自らが追い詰められていることに気づいた。
しかしそれは、逆に少女を冷静にした。
身に着けている、少し大きめの耳飾りに、そっと触れる。
緑の入り口にさえ辿りつければ、さらに距離はあるが、潜む場所の見当はいくつか付けてあった。
少女は、決めた事を実行するために、勢い良く立ち上がろうとする。
しかし実際には、疲労により二度もよろけながら身と起こし、顔を上げると、既に周囲は死者に囲まれていた。
そのうちの一体と、目があったかのように思えた。
決意は変わらない。この期に及んでは、潜むのではなく、緑の闇を駆け抜けるのだ。
生き延びるための最適解ではない。それは、少女の性格だった。

01-02 黒い仮面の男

キィキィ、ガァガァ。
少女にとって、昼間は耳さわりだった鳥の鳴き声であったが、今はそれほどでもなかった。
最後の記憶は、目標の一割も距離を進めないまま、死者に足を捕まれ、勢いよく転倒した所まで。
頭を打って意識を失ったのだろうか。しかし痛みはぼんやりとしており、それ故、自分は死者の側へ来たのだと、思った。
全身がだるい。瞼を開くのもおっくうだ。このまま眠り続けたい。
弱気に支配されそうになると、少女は反射的に目を開いた。

「ウアア!?」
叫んだ少女の目前に、黒い顔の怪物がいた。
違う、人間だ。黒い板の面を被った男。
長身にしては、若い狼を思わせるように身体の線は細く、引き締まっている。
それでも腕と足は、少女の三回りも太かった。
「ゥゥゥゥゥゥ……」
少女は背を地面に横たえたまま、顔のみを起こし、唸り声で威嚇をした。
目前の男が略奪者であろうが無かろうが、外で出会う男は、みな同じだ。
仮面の男は、少女から鋭い視線を受けている自らの首筋に、手をあてた。
男のそれが、間が抜けたほどゆったりとした仕草だったので、少女はさらに苛立った。
そんな少女の様子を見て、男は、もう片方の手を、一枚身に着けた腰草の後ろに伸ばした。
武器を取り出すのだろうか。図体がでかいだけの臆病者め。
全身に、痛みと疲労が蘇り、身動き一つ困難な状況だと理解しながらも、少女はさらに威嚇の声を高める。
だが、男は腰草の後ろに手を入れたまま、しばらく微動だにしなかった。
やがて男は振り返り、少女を残したまま、その場を去った。
一人森の木陰に残された少女であったが、男が過ぎ去った後も、うなり声を収めようとしなかった。
その間、自分の全身に施された薬草と、傍らに置かれたスイートベリーの小山にも、気が付かなかった。

甘い、という少女の感覚が、全て上書きされるような衝撃だった。
少女は、傍らに置かれたスイートベリーを一粒、空腹のあまり、即座に手を出し、噛み砕き、胃へと流し込んでいた。
残りの果実を、口の中いっぱいに頬張りたい欲求を必死に抑える。
それは、生と死がかかった旅路の中で、最も忍耐力を必要とした。
もう一粒だけを、長い時間をかけて、ゆっくりと味わい、咀嚼し、じわりじわり、口内で溶かしていく。
口に甘い幸福を残したまま、残りのスイートベリーは全て、手持ちの背嚢に詰めた。
自分の帰りを待つ仲間であるペロの驚く姿を想像すると、少女の頬は思わず緩んだ。
どういうわけか、生きている。その時初めて、少女は全身に張られている薬草に気がついた。
少女は考えた。なぜ自分は夜を越えられたのか、積まれたスイートベリーと薬草は、誰が施したものなのか。
黒い仮面が頭に浮かんだ。自分はあの男に救われたのであろうか。
ならば、なぜ男は、それを告げずに去ったのか。
外の人間から一方的な善意など受けたことの無い少女であったから、男が当然要求するべき見返りか、あるいは、罠の存在を疑った。
ただ、当面の問題が大きすぎたせいで、少女はそれに関して考えることを止めた。
少女は、冬を越せるだけの食料を確保して、少女を待つ仲間がいる拠点まで、戻らねばならない。
急がねばならなかった。
仲間のペロが待つ拠点の周囲に、彼女が自生できるだけの食料はもう残っておらず、彼女のために残した僅かな食料も、既に尽き初めている頃だった。

01-03 木のスコップ

日は真上に登っている。
じりじりと肌を焼く暑さ。
少女は、潜む場所を確保する作業を優先した。
夜までの時間を全て費やしても良い、と判断する。
旅先では、狭い穴と、それを塞ぐ蓋があれば良い。
天然の穴、もしくは隙間があれば良いのだが、見渡す限りは木と草が隙間なく台地を囲んでいる。
地理感の無い場所では、探すよりも作る方が確実で早かった。
要は、夜の間、自分ひとりが潜めるだけの穴を掘れば良いのだ。
いくつか草を引き抜き、折り、鼻で確かめる。
より香りが強い草を、穴の蓋にする必要があった。
手ごろな草はすぐに見つかった。
ただ、蓋になるように草を編む作業が、少女にとって不得意であったため、どうしても時間がかかってしまった。

しばらく苦戦して、蓋はできた。次は穴を掘る作業に移る。
日差しに照り付けられた乾いた土よりも、落ち葉が積もった下などの、湿り気のある土を、少女は選んだ。
土の表面に生えている草を可能な限りそぎ取り、残りは抜く。
少女は、作業をする自分の、細く頼りない指を見た。
仮面の男を思い出す。あの男の長く、逞しく、筋張った指と比べれば、自分の指はなんと頼りないものなのか。
疲労した身体で気力を振り絞り、腕と指に力を込め、土を掘る。
その一かきごとに、自分の手を鍛えるように。
工夫をしなければならない。弱い者が強い者に勝つためには、強い者より多くの鍛錬を重ねた上で、工夫をすることだ。
少女は穴を掘り続けた。黒い仮面の男への思いを、心の中で呟きながら。
男は、私から逃げた。私より弱いのか。いや、私の方が小さい。きっと弱い。
でも次は私が勝つ。疲れていても私の方が速い。あの男だろうが……どの男だろうが。
男……男、男たち。私から、私とペロから、ムムを奪った、男たち……。

「ウアアア!!?」
少女は驚くと同時に、後ろへと飛び跳ねる。
少女が顔を上げると、またしても仮面の男が、目前にいた。
少女は警戒が足りないと、自らを責めながら、視線を男からそらさず、地面をまさぐり、武器になりそうな石か枝を探す。
仮面の男が、木の棒を抜いた。先端には木の板が結び付けられている。
少女はさらに警戒を強めたが、男はその棒で攻撃する意思は無いようで、少女に差し出しているようだった。
「何のつもりか!」
問いかけると同時に、少女は差し出された棒を奪い取る。
男を理解できなくても、奪えるものは奪い、そして攻撃するべきだ。
しかし、少女がいくら棒を振り回しても、男はのろり、のろりと避ける。それがまた少女には腹ただしい。
自分が弱るのを待っているのか。それにしたって、回りくどい真似を。
「けだものめッ、私をもてあそぼぶか!? 私の名はウズマキ、お前の喉を嚙みちぎり、血をすすってやる!」
威嚇も、実際の攻撃も、全く効果がないものだから、少女は言葉で攻撃せざるを得なかった。
男は少し離れて、いや、実の所先ほどから、何かを伝えようとする動作を繰り返しているようだった。
その様が、余裕を持って少女の棒振りを避ける姿よりも、随分と必死に見えた。

男は、喋られないのだろうか。
ウズマキ、と自らを名乗った少女は肩で息をしながら、男を観察する。
少女から攻撃を受けない間はずっと、男は同じ動作を繰り返している。
ようやく少女は、男の身振り手振りから、男が棒で地面を掘る様を伝えようとしている事に気がついた。
少女が呆然としたまま、棒を地面に向け、男の真似をして地面を掘る仕草をすると、男はゆっくりと、大きく頷いた。

ウズマキは、自分が想定していたよりも、何倍も速く穴を掘り終えた。
初めて使うその道具は、「キノスコップ」と男は言った。
キノスコップの便利さと、男の声が想像よりはるかに低く、優しかった事に、少女はうろたえた。
どうやら、少女の使う言葉と、男の使う言葉は、種類が違うらしい。
しかし、なぜか男は、少女のつぶやく言葉を時折理解しているかのような反応を見せ、少女を不思議がらせた。
少女は、キノスコップを返す際、礼として男に何かを差し出さなくてはならなかった。
手持ちの食料は、もうストロベリーしか無い。少女は単純に、ストロベリーを男に差し出すのが惜しかった。
少女は身に着けた耳飾りを手でいじった。
それは少女の癖で、アメジストの耳飾りは、ストロベリーよりも少女にとって大切なものだった。
男はじッと、少女のその様と、耳飾りを眺めていた。
少女は男がその首飾りを狙っていると思い込み、観念して手持ちの果実を半分、男に差し出した。
そもそもその果実も、男から与えられたものかもしれなかったが、男は何も言わず果実を受け取り、仮面の隙間から口に入れた。
途端に少女は、葉の下で物欲しそうな子供の顔になった。
男が気づいて果実を差し出すが、決して少女は受け取ろうとしない。
男に渡したストロベリーは、出所がどうであれ、キノスコップを使わせてもらった対価であった。
少女が果実を受け取らなかった事に対して、男は納得をしたように小さく頷いた。
自分の意図が伝わったかどうかは分からないが、少女もやや大げさに頷いて見せ、借りたスコップを男へ返した。
すると、男は、少し思案をした素振りを見せた後に、穴を掘り始めた。
「お、おい! 貴様! 自分の穴を掘るのであれば、もっと離れた場所にしろ!」
少女が非難の声を上げていたが、男は構わず掘り続けた。
この男は、なぜ、こうも、自分に近づこうとしてくるのだろうか。
すぐ隣で穴を掘り続けている男を観察しながら、少女は考えた。
男がキノスコップを使って地面を掘る姿は、手だけでなく足、足だけでなく、全身の筋肉をくまなく使っている事がやがて分かった。
少女は男の技術をうらやましく、妬ましく思った。
夜の間まで、食料を探す予定であったが、少女は男の動きを覚えようと、真剣に見つめ続けていた。
ふと、男が動きを止め、指を刺す。その先には、少女が草で編んだ穴の蓋があった。
気づいた少女は、急ぎ香りの強い草をかき集め、蓋を編む。
男が掘っている穴は自分の倍も幅があった。
森の中で、男と少女が作業を行う音が、淡々と流れていた。
男が穴を掘り終えるのと、少女が苦労して蓋を編み終えたのは、ほぼ同時であった。
少女は男にためらいながら、草の蓋を差し出す。男は引き換えにと、先ほど受け取ったストロベリーの半分を、少女に渡す。
少女は躊躇わずに受け取り、ストロベリーを一口ほおばった。
労働の対価として手に入れた、果実の甘味を、少女はゆっくりと味わった。
男は、何も告げないまま、自分が掘った穴の方へと入っていった。
日は暮れようとしていた。
少女も急ぎ穴へと入り、蓋を固定する。
穴の中は暗く、強い孤独と不安に支配されそうになる。
だが、仮面の男が隣の穴に居る。そう思うと、恐怖が僅かに薄いでいった。
望まぬまでも、勝手なことを。
少女は改めて、自分の気持ちを戒めた。

01-04 はしごとリンゴ

朝、ウズマキがしばらくぶりの深い眠りから覚めると、黒い仮面の男は既に起きていた。
少女が眠っている間に集めていたのであろう、いくつのも木の枝を使い、何かをこしらえている。
少女は少し男から離れた場所から、警戒を怠らないよう、男の手元を眺める。
長く太い棒と棒の間に、丈夫そうな木の枝を差し込み、引っ掛け、木のつるや草を使い補強をし、組み立てていく。
ムムほどとは思わないにしても、自分よりよほど器用だ。
自らの耳飾りに触れながら、少女は思った。
出来上がったその道具を、仮面の男は「ハシゴ」と呼んだ。
少女は最初、ハシゴを見て、扱いにくそうな武器だと思った。
しかし、男が木にハシゴを立てかけるのを見て、木を登るための道具だと理解した。
木の上には、少女が諦めていた赤く丸い果実が、たわわに実っている。
男からもらった果実よりも、さらに大きく、丸々と太っている赤い実。
たくさん採れるのであれば、食料調達の目的を達する十分な量になるはずだ。
少女はハシゴを使わせて欲しかった。
だが、引き換えに渡す事ができるストロベリーとは、つり合いが取れないと思い悩んだ。
「うぅん……むぅ………あッ」
少女が思いを言葉にできない間に、男はハシゴへと足をかけていた。
ミシリ、とハシゴが軋み、男は即座に足を離した。
男は少し考える様を見せた後、少女へ、身振り手振りを使って何かを伝えようとしてきた。
自分が登るとハシゴが重さで壊れるから、少女に登って欲しい。そう、少女は、男の意図を理解した。
「分かった。お前が作ったハシゴで、私が登り、果実を採る。お前が半分、私が半分、山分けだ。良いな?」
少女は、身振り手振りに言葉を交え、男に交渉をした。
男はゆっくりと頷いた。

少女は意気込んでハシゴに足をかけた。
ハシゴは軋むものの、男の体重を支えられないほど脆いとは、少女には思えなかった。
少女はするすると登り、ハシゴの一番上までたどり着く。
そこまで登れば、木の枝を伝って、果実まで手が届いた。
少女はその一つを採ろうする。
片手では力が足りず、両手を使ってようやくその一つをむしり取れた。
艶やかな赤く丸い果実。慎重に香りを確かめ、齧る。
食べられる。
甘い、うまい、歯ごたえもある。少し酸っぱいのがまた良い。
少女は木の上で、良い場所の枝に両足を絡めて陣取ると、無心で赤い果実を採集していく。
少女が一つ採っては、男に投げる。男が受け取る。男はその果実を「リンゴ」と呼んだ。
それを繰り返す内、木の上から採るものが無くなると、少女は下りて、別の木にハシゴをかけた。
採る、投げる、受け取る。男の傍らにリンゴが積まれていく。
男は、少女が落とすリンゴを、必ず落とさず、受け取っていた。
少女は少しムキになり、少し狙いを逸らしたり、強くリンゴを投げたりしてみる。
それでも男は、リンゴを地にこぼす事無く、受け止め続けた。
まるで少女が次どこに投げるか、分かっているかのようであった。

ハシゴとりんご-鋼鉄のレムルス

少女は意地になって、最後の一つを、全力で男へと投げつけた。
それも、男に受け取られてしまったのだが、少女は勢い余って、高い木から落ちてしまう。
「うわああああああ!? ………あんッ!」
地面に直撃する。少女が覚悟していた衝撃だが、一瞬優しく宙に浮いた感覚に変わった。
男は落ちた少女を、難なく受け止めていた。
結局、男は少女が落としたものを、受け損じる事は一度も無かった。

01-05 一つの穴

山積みになったリンゴの傍ら。
少女が何個目かのリンゴを齧りながら、思案している。
やや恰好を付けたような姿勢になっているのは、空腹が満たされたのと、先ほどの失敗を隠しているからだった。
十分な水分を摂取した少女の肌は、瑞々しい張りを既に取り戻しつつあった。
間もなく夜が訪れるが、採ったリンゴの保管場所まで、少女は考えていなかった。
木にぶら下げるにしても、少女の背嚢には、その5分の一も入らない。
少女は、収穫したリンゴを、一個たりとも無駄にするつもりは無かった。

少女が思案をしている間に、男は大葉をたくさん採っていた。
その大葉を、少女に断りも無く少女の穴へと敷き詰めていき、リンゴを丁寧に入れていく。
「なるほど、良い考えだ。私に木の上で、夜通しリンゴを見張れと言うのだな。任されよう」
少女は男の意図を推測し、言葉にした。
男は返事もせず、リンゴを全て穴に敷き詰めた後、蓋をかぶせ、自らがハシゴを登り始めた。
「貴様! やはりハシゴを登れるのではないか!」
男は申し訳なさそうに、自分の穴の指差し、少女に入るよう、促した。
元気になった少女は、地団駄を踏み、男へ抗議する。
「馬鹿にするな! 何度も情けをかけられ、施しを受け、恥をかかされ、私にどうしろと言うのだ! 説明しろ!」
言いがかりのような言葉を男にぶつけながら、少女はハシゴを必死に揺らした。
すると、ハシゴはいとも簡単に、崩れ、壊れてしまった。
ハシゴの途中まで登っていた男は、軽やかに地面に降り立った。
「す……すまない。まさか、ハシゴがこんな簡単に壊れるとは、思わなくて……」
折角の道具を壊してしまった事は、少女を心底申し訳なくさせた。
男は上を見上げ、夜が目前である事を確かめると、やや強めな仕草で、男の穴に少女が入るよう促した。
「わ、分かった。貴様には……大きな借りができた。この上は従おう」
少女はうつむき、考え、ついに決心した。
「しかし、二人でだ。貴様が掘った穴なら、二人なら、十分入れるだろう」
少女の意図が男に伝わると。初めて男は、驚いた様を見せた。

なぜ、男はこうも、自分に与えるのだろう。
男の胸に顔を埋め、男のゆるやかな鼓動を聞きながら、ウズマキは考えていた。
闇の中。頭上に死者が徘徊する気配。
背を向き合いながら入れるほど、男の穴は広くなく、お互いが向き合い、半ば絡み合う形で、二人は潜んでいた。
逞しい胸板、太もも、腕、匂い、その全てを感じる事のできる位置に、少女は居た。
既に長い時間が経っている。
しかし、男のそれらに、慣れる事が少女にはできなかった。
自らの鼓動が高まろうとする都度、男から少しでも離れようと身体をよじるが、かえって他の部位が密着してしまう事になる。
少女ばかりが動き、男は微動だにしていない。
さらに時間が過ぎ、男のかすかな寝息が聞こえ始めた。
少女は安心し、ようやく少し、冷静になる事ができた。
(…………そうか、この男は、私とつがいになりたいのだな)
外の世界では、男女が結婚の儀を取り交わす事があると、少女は知っていた。
今の少女は、身体中が垢と汗にまみれ、身体に塗った泥の文様も、かすかに残った程度であった。
しかし、水浴びをし、身体の文様を塗り直せば、自分だって「それなり」なのだ。
そんな自分を見れば、男だってきっと、すぐにでも、はっきり求婚をしてくるだろう。
(そうか…………そうだったのか。しかし、貴様の気持ちに、私は応える事はできない)
少女は自分の使命を鮮明に思い描き、男に申し訳なく思った。
(だが、借りは返すぞ。貴様に借りを返すまで、貴様は私と一緒にいるのだ)
(そしてもし、もしムムを略奪者どもから取り戻す事ができれば、その時は…………)
できもしない、望めもしない、甘い幸福な未来を、少女は思い描いた。
少女の胸はさらに高鳴ったが、男が目覚める素振りを一切見せない事が、少女にとって救いだった。

黒い仮面の男は、眠ったふりをしながら、自問自答をしていた。
自分はいったい、何をしたいのだろうか。
これまでのやりとりで、少女の性格が、幼くも誇り高い事を男は理解していた。
穴を掘っていた時も、何度か手伝おうとしたが、少女は汗と泥にまみれながら、頑にスコップを譲らなかった。
一方的な施しを受ける事を良しとせず、借りた恩は、必ず返そうとしてくる。
この世界にとって、自分が育ってきた環境と比べて、少女の性格は、ひどく貴重なものに思えた。
そして、自分を拒む理由は、おおよそ見当が付いていた。
その上でも、協力し合えないまま、夜を越えるために、小穴一つに少女を委ねて良いものでは無いと判断し、今に至る。
男が少女と出会ったのは偶然では無く、師から申し付けられた命令であった。
目的を達せぬまま戻る事はできず、さりとて、危なっかしいこの少女を放ってはおけず。
どうすべきか、男は悩み続けていた。

02-01 朝の空気

「私が安全を確認する。もう少し待て」
ウズマキは、下で自分を支える仮面の男に命令をした。
日差しに照らされた周囲に、死者の気配はない。
しかし、木々がひしめく森の中には、闇のように薄暗い場所がいくつか存在している。
ウズマキにとって、森で迎える初めての朝であった。
だからこそ、念入りに観察し、他者の気配を目と鼻で探った。
朝、森の空気は清々しく、緑の香りは心地よい事を、少女は知った。
そのせいか、先ほどまで穴の中で嗅いでいた、自分と男の体臭が入り混じった匂いが、鮮明に思い出された。
既に、男の匂いは気にならなくなっていたが、旅中で水浴びもしていない自分の体臭を男がどう感じたのか、少女は初めて気になった。
少女は思わず下を向いた。すると、男も同じように下を向いていた。
「……重いか?」
どうでも良い事を、少女は質問をしてしまったと思った。
男はゆっくりと頭を振った。
穴の中で、男の肩に足を乗せ、少女は立っている。
屈強でいてしなやかな男の肩は、揺れること無くしっかりと少女の全体重を支え、安定していた。
少女が少しでも動くと、より少女が立ちやすい態勢になるよう、男も少し身体をずらす。
その繊細かつ絶妙な動きが、なぜか少女の頬を熱くさせた。
これまでの事も含め、思いやりのある男だと思った。
世の中には、こんな男もいるのだ。
略奪者のような男たちばかりでは、ないのかもしれない。
そんな男が、自分に好意を寄せていると思えば、なおさら気が良くなる少女であった。

「貴様には、帰る家はあるのか? 家族や仲間は?」
穴から這い出た後、ウズマキは、自分の背嚢にリンゴとストロベリーを丁寧に敷き詰めながら、仮面の男に問いかけた。
男と少女との間に、共通の言葉は少ないものの、少なくとも男は、少女の言葉を概ね理解できているようだった。
男は思い悩むように深くうつむいた。
少女は手を止めて男の仮面を眺めたが、即答のできない質問をした、という事以外は、何も伺い知れなかった。
「……では、私の家に来ると良い」
少女は男の仮面から視線を逸らし、昨晩、そしてつい先ほどにも、頭の中で幾度となく反芻していた言葉を、口に出した。
「あ、安全な場所なのだ。見れば誰もが必ず驚く。仲間以外で連れて行くのは貴様が初めてだ」
少女は再び手を動かしながら、やや早口になっている自分に気が付いた。
「だが、わ、私は、貴様を完全に信用したわけではないぞッ。これからの、貴様の心がけ次第である事は、念を押して言っておく」
余計な事を言ってしまったと、少女は後悔して、顔を上げた。
すると、男はじっと、少女の背嚢に収まりきらないであろう、たくさんのリンゴを眺めていた。
少女は、先ほどの言葉を柔らかく訂正すべきかどうか、悩んだ。
その間に、男は大きく頷き、決心したようだった。
少女の分のリンゴを、男は自分の背嚢に詰め始めた。
「良い心がけだ」
少女は偉そうに言ったつもりだったが、明らかにその声は弾んでしまっていた。

02-02 帰路

しかし、ウズマキは帰路への方角を見失っていた。
想像以上に、森の奥へと入り込んでいた。
ところが、仮面の男は目印を付けていたようで、2人は迷いなく、少女が見覚えのある森の入り口へと辿り着いた。
ほっとする半面、少女はいくつかの疑問の答えに気づかざるを得なかった。
「貴様ッ、こんな場所から、私を見張り続けていたのか!」
男は素直に、それでいて申し訳なさそうに、背をやや丸めながら、頷いた。
「ふ、ふん。私が『りんご』を採れない様は、さぞ滑稽であったろう。だが……やはり、最初の夜、私を救ってくれたのは、貴様だったのだな」
どこか悔しそうに、少女はなかなか言い出せなかった言葉を吐き出した。
男はややためらいがちに、やがて観念したように、頭を縦に下げた。
死者の群れから夜の間、自分をどう守り続けたのか、少女には想像も付かない。
しかし、この男なら、そのような事もやってしまいそうな、頼もしさを感じ始めていた。
「大きな貸しがまた一つ、貴様にできてしまった」
そう言いながらも、少女は必要以上に胸を張ってみせた。
「私は、貴様の事を何も知らない。だが、私は誓う。必ず貴様に貸しを返す」
男は首を振ろうとしたが、結局頷いた。
少女のまっすぐな決意に、押し切られた形のようだった。
ウズマキは、頬に体温が集まっていくのを感じた。
今すぐ、男に貸しを持ち出され、結婚したいと求められたら、自分は断る事ができるものだろうか。
男は何も言わず、少女に道案内を求めた。
「よ、よしッ。ここから先は、図体のでかい貴様には厳しい道のりになるぞ。私がしっかりと助けてやるから、安心しろ」
岩山地帯は、少女の庭であった。
ただ、浮かれていた少女は、行きとは違い、想定以上の収穫がいかに枷となるかを、はるかに甘く見積もってしまっていた。

ウズマキの見込み違いは、3つに及んだ。
一つ、身軽な状態で岩山地帯の下るのはお手のものであったが、重たい荷物を背負っては、登るために相当な握力を必要としたこと。
二つ、目的の一割も進まぬ内に、余力が尽きてしまったこと。
三つ、仮面の男は、少女を背負い、果実が詰まった背嚢を2つ両手に持ちながら、軽々と岩山を登り続けていること。
少女は、密着した胸で、男の逞しい背中を、痺れた細い腕で、固く広く尖った肩を、それぞれに感じていた。
少女が差した方向に進む男の、一つ一つの動作には無駄が無い。
走り、飛び、次に握る小岩を選び、すぅっと引き寄せて登る。
早い。男の余力はまるで無尽蔵にあるようだった。
帰路の序盤には、明らかに歩調を合わせてくれていたのであろう。
しかも、少女のお腹がすき始める頃に、ストロベリーを取り出して、少女に差し出すほぼの心配りであった。
男が皆、この男のようなものでは無い事を、少女は知っていた。
少女にとって、目撃できた数少ない世の男は、皆粗暴で、力任せで、怠け者で、口汚い言葉しか吐かないものだった。
男が一足踏み出す度に、一つ小岩を上がる度に、少女の価値観が塗り替えられていく。
同時に、垢と汗まみれで、身体の文様も既に消えつつある自分のみすぼらしさが、もどかしかった。
早く、汗と泥にまみれた身体を洗いたい。
油が浸み込んだような髪をすきたい。
何より、身体の文様をペロに塗り直してもらいたい。
強い使命を自らに課している自分が、そんな浮かれた気持ちを恥じる気持ちは、もちろんあった。
「良い心がけだ……うん、良い心がけ……だ」
だがそれを、頭の中から完全に消す事は、今の少女にはできなかった。

森から出立しようとした際、重い荷物を背に感じ、ウズマキは拠点としている家に戻るまで、三泊と予測した。
岩山を登り始め、百歩も進まぬ内に、四泊以上の行程になると、覚悟した。
全身が汗に覆われ、両手両肩の感覚が無くなった時には、拠点へ戻るために、旅の目的であった貴重な果実を減らす事まで考えていた。
それが、仮面の男に荷を預け、さらには背負われて進む今となっては、日が沈まぬ内に、拠点までもう目と鼻の距離にまで辿り着いていた。
男の身体能力は、驚愕であった。
少女はもう、自分が男より優れているものなど、無いのではないかと思った。
そして、それが誇らしいとさえ、思い初めていた。
「この辺りだ」
少女は男の背から降りた。
「今日はあの岩穴で泊まろう。狭い横穴だが、昨日掘った穴よりは広い。疲れたろう。りんごも、すとろべりーも、好きなだけ食べてくれ」
もう既に、拠点辺りを視界に収める所まで来ていたのだが、流石の男でも、日暮れまでには間に合わないと、少女は判断した。
男の疲労も気になった。大量の荷物を背負い、ほとんど小休止すら取っていなかった。
やや、肩で息をしていた男だったが、岩穴までリンゴを運ぶと、男の背嚢から二つを選び、一つを少女に差し出した。
「私はいらない。疲れてないから、腹も空いていない。だいたいそのリンゴは、貴様の取り分ではないか」
しかし、男は差し出した手を引かなかった。少女は観念して、リンゴを受け取り、齧った。
爽やかな酸味と甘さが、疲労が蓄積された身体に浸み込んでいく。早くペロにも、味合わせてあげたかった。
少女がリンゴを口にしたのを確認した後、男もリンゴを少し齧った。
男がゆっくりと咀嚼して飲み込む。自分には無い立派な喉ぼとけが動くのを眺めながら、少女の胸は高鳴った。
「入り口は私が塞いでおく。貴様は、ほら、早く楽にしてくれ」
少女を背から降ろした時には、やや肩で息をしていた男であったが、既に呼吸は落ち着いていた。
それでも、少女はあれこれと世話を焼いて、男を岩穴の少しでも良い場所で、休ませようとした。

02-03 男の名

ウズマキが岩穴の入り口を塞ぎ終えた後、夜が訪れた。
外からは既に死者の声が聞こえ始めているが、やや遠い。
岩穴自体が、死者が登りにくい場所にあるからだった。
「風向きも悪くない。ここも良い場所だろう。しかし、私たちの家はこんなものではないぞ。早く貴様の驚く顔が、見たいものだ」
小声で少女が呟いた。
入り口は既に塞いでおり、岩穴の中は深い闇だったが、2人とも目は暗闇に慣れており、お互いの場所は分かっている。
より地面が滑らかで眠りやすい場所を、少女は男に譲り、自らは、やや尖った石が目立つ奥の場所に陣取っていた。
男は、穴の入り口の方に、ずっと視線を向けている。
少女は、厚意を素直に受け入れたのは、入り口に近い場所で自分を守るつもりなのかもしれない、と思った。
心配性な男だ。
心の中で少女は笑った。
「仲間が、私を待っている。名はペロという。採集は私のように得意では無いが、花が好きな、優しい子だ。どんな食材でも、いつも工夫しておいしく出してくれる」
闇の中で、男の視線を感じない事が、少女の口を滑らかにさせた。
「ペロは、食材を保存するのも得意だ。だが、食べられないし、薬にもならない花や草を干すのは、私には理解できない」
男は、仮面を少女に向けぬまま、小さく相槌を繰り返しているようだった。
「貴様と出会った場所とは違い、この辺りは草木も、ほとんど無い。結局、周辺の食料になるものは、採りつくしてしまった」
「しかし、貴様と一緒なら、また森に採集へと出かけられる。そうだ。次はペロも一緒に連れて行こう。ペロは……」
少女は顔をうつむいた。
「もう一人、仲間が一緒にいた。でも…………略奪者に、連れ去られてしまった」
それでも、少女の声は、力強かった。
「私は、必ず、仲間を、ムムを取り戻さなくてはならないのだ。貴様のように早く、貴様のように強く、なって……」
顔を上げると、少女は驚いた。仮面の男が音も無く、少女の目前に居たからだ。
ドンッ。
突然男は、少女の顔すぐ横の壁に、勢いよく手を突いた。
「あッ…………」
少女は、小さな岩穴の奥で、男に逃げ道を塞がれた形になっていた。
出会った頃であれば、即座に男を突き飛ばしていたであろう。
だが、今はもう、これから男が自分に何をするつもりなのかを思い、混乱と不安と期待で、頭の中が真っ白になっていた。

男の名

「ん…………ん!?」
男がゆっくりと壁から手を離すと、小さな蜘蛛が潰れていた。
いつもなら気が付かない少女では無かった。
危うい所であった。
この辺りでは稀に見る種類の蜘蛛であった。
「貴様! 手を出せ! 早く!」
少女は自らの油断を激しく責めた。その蜘蛛は、小さいながらも強い毒を持っていたからだ。
少女は男の腕に掴みかかり、男の手を確認した。
男の手の平には、岩山登りのためについた小さな傷が、無数にあった。
「痛むぞ、我慢しろ!」
迷わず、少女は男の手にかぶりついた。
そして、男の手から毒を必死に吸い出す。
男は戸惑いながら、しかし、自分の身体が変調をきたしている事に気づいたようで、少女のなすがままになっている。
「んッ……んッ……ペッ………んッ、んッ……ぺッ………」
少女は唇を押しつけ、強く吸っては吐き、吸っては吐きを繰り返しながら、男の容態を観察した。
傷口から毒が浸み込んでいるのであれば、もう遅い。
既に男の手からは、ひどい熱が発せられていた。
僅かだが、痙攣も始まっている。
男は二、三度首を振り、大丈夫だ、と、仕草で少女に伝えようとしていた。
「この毒は、朝には強い熱が出て、動けなくなる。次の夜にはひどい激痛で、身体が裏返る」
少女は、毒が浸み込んで無い方の、男の手を握った。
「でも大丈夫だ。家に戻れば薬草がある。ペロが作った薬草だ。よく効く。必ず治る」
男は、申し訳ないと、身振り手振りで伝えたいようだった。
しかし、それすらもままならないほど、毒が身体にまわりつつあるようであった。
「貴様は大丈夫。私がいる。貴様は大丈夫だ。私が死なせない。私の家に連れて帰る」
胸の中は激しい動悸に襲われていたが、少女の自分の声を必死に落ち着かせていた。
「お前の名は? 名前。私の名はウズマキ。お前の名を教えてくれ、頼む」
少女は、男の口元に耳を近づけた。
「れむるす? レムルスというのだな。つらくなったら、私の名を呼べ。私はお前の名を呼び返す。お前が私の手を握れば、握り返す」
「いいか、レムルス。朝まで、私の手を握り続けろ。ウズマキがお前を、必ず守る」

03-01 半肩を担ぐ

思っていたよりも毒のまわりが相当に早い。
レムルスの全身はあれからすぐに焼けるような高熱を発し、ウズマキの心胆を寒からしめた。
慣れぬ環境の毒は、致命傷に至りやすいと、ウズマキはペロから聞いた事があった。
少女は朝まで、男の生命力が尽きぬよう、手を握りながら祈り続けた。
「レムルス、もうすぐだ。レムルス、大丈夫だ。レムルス……レムルス……」
朝になるまでの時間は、少女にとって、途方も無く長かった。
それほど、男の容態は油断のできないものに思えたからであった。
「日の光! 朝だ、レムルス! 朝日が昇ったぞ!」
入り口に差し込んできた日差しを確認した瞬間、ウズマキは岩穴を塞いでいた蓋を蹴飛ばした。
周囲の警戒もそこそこに、少女は男の元へ急ぎ駆け戻り、毒が混入していない方の手を再び握った。
少女をして、不本意な夜を越えた事は一度や二度では無かったが、今ほど朝をありがたいと感謝した事はなかった。
男は手を握り返してみせ、少女の声に応えた。
これまで見せられてきた男の逞しさと比べ、弱々しい力だった。
少女は、熱を発している男の手を優しく握り返す。
「レムルス。この辺りは狂暴な山羊が居る。毒蜘蛛がまた現れてもいけない。お前は、匂い消しの泥も薬草も塗っていない」
あらかじめ、男が少女を一人で拠点に帰るよう申し出るのを、拒否した説明であった。
「私が肩を貸す。立て、レムルス。立って共に歩き、私の家まで一緒に向かおう」
男は朦朧とした様子でしばらく思案をし、観念したように洞窟の入り口まで這い、立ち上がろうとした。
しかしまともに立ち上がれず、少女がすぐさま、肩を支えた。
男の体重ほとんどが、少女に伸しかかる。
「ううううう! おおッ!!」
少女は歯を必死に食いしばり、吠え、男を支えた。
リンゴなどとは比べ物にならない重さだった。
しかし、少しの間を置いて、男の体重が軽くなった。
男は、自分の力だけで立とうとしていた。
男の口元からは血が滲んでいた。
そこまでしないと、自分の力で立てないほどに、男は弱っているようだった。
「やめろ、レムルス。毒のまわりが早くなる。私を頼れ。私に身体を預けろ」
男は、小さな岩穴の奥に置き去りとなったリンゴの山を見る。
「気にするな。リンゴは後で取りに来る……山羊に食われれば、また取りに行けば良い」
弱々しくも、レムルスの全身に力が込められた。
前に。前に進もうとする力だった。
その身体の重さが、頼りなさが、思いやりが、健気さが、ウズマキにとって、たまらなく愛おしく思えた。

ウズマキの拠点はもう、目前だった。
少女は全身でレムルスの肩を支え、そこへと辿りつくまでに、何もかもを出し尽くしていた。
少女のか細い身体の中に含まれる水分は、くまなく絞り尽くされていた。
一足、一足と踏ん張り続け、流れ落ちた汗で、下半身は失禁しているかのようであった。
ウズマキは、レムルスの口に、一すくいだけ持って来たストロベリーの最後を、押し込もうとした。
しかし、男の意識は朦朧としているのか、ストロベリーは口元からこぼれていった。
それを少女は地に落ちる前に、かろうじて受け止め、もう一度、今度は無理やり男の口へと押し込んだ。
「レムルス。着いた」
少女の喉は、男を幾度となく励まし続けてきたために乾ききっており、声は枯れていた。
男は返事をしなかったが、決して膝を折ろうとはしなかった。
少女は余力を使い切ってなお、男を入り口の壁へともたれかけさせるのに、細心の注意を払った。
少女が男の身体から手を離すと、男はゆっくりと膝を折り、地面にへたりこんだ。
「待ってろ。すぐ、に、薬草を。ペロ、連れて、くる」
ウズマキらが拠点とする岩穴は、入り口は狭いものの、中は広かった。
少女はよろめきながら、岩穴の先へと進む。
奥には細い水路が有った。
その水路を抜けると、ペロの待つ寝床へと辿りつける。
水に飛び込む前、はやる気持ちを抑えながら、ウズマキは足元の石を叩き、自分を待つペロに合図を送るのを、忘れなかった。
一度大きく。二度少し力を弱めて、最後にもう一度大きく、岩を石で叩く。
そうしなければ、水路の出口には、重い蓋が置かれたままになっている。
合図によって、ペロに出口の蓋をどかしてもらわなくてはならない。
自分たちの安全を守るための、約束事だった。
二、三呼吸のみウズマキは休み、水の中へと潜り込んでいった。

03-02 再会

水路の出口は、蓋で閉じられていなかった。
ウズマキは這いずって水面から身体を出した。
ムムを奪われた日の翌朝と同じくらい、水に濡れた身体は重かった。
しかし、今のそれは精神的なものではなく、ただただ肉体が、疲労していたからだった。
「ウズマキ!」
今はたった一人残った、仲間の声。
自分の名を呼んだペロの声には、強い喜びの感情があった。
だが同時に、いつも以上のか細さを、ウズマキは感じた。
自分がしばらく戻らなかったのだから、不安だったのだろう。
ウズマキは勝手にそう信じ込んだ。
疲労で顔を上げられぬまま、ウズマキはペロに、次々と指示を出した。
「毒蜘蛛の、薬草を、用意してくれ。入り口に、毒に犯された、男が居る。信用できる。私の夫になるかもしれない、男だ」
尋常無く必死な様子のウズマキを見て、冷静に、動揺をしないよう、心構えをしていたペロであった。
しかし、言葉を最後まで聞き終えた後には、驚愕で高速の瞬きを繰り返さねばならなかった。
「わわわ、分かった。緑クモの毒だね。その男の人は、身体が大きい? それなら、2人分は調合しないと」
ウズマキを安心させるために、ペロは理解できた指示のみを、まずは片付けようと思った。
「3人分だ」
ペロは緊張で身体を固くした。
どんな大男なのだろうと、不安になった。
「大丈夫だ。レムルスは、他の男たちとは、違う」
地面に顔を突っ伏したまま、ウズマキはペロの緊張に気づき、解こうとした。
「……分かった。3人分だねッ」
ペロは、かつてのウズマキと同じ、男というものを全く信用していなかった。
だが、それ以上に、真剣なウズマキの言葉を疑う事はできなかった。
ガサ、ガサガサ……パッ、パッ、パサッ、パッ……ゴリ……ゴリ……。
ウズマキの耳に、ペロが蓄えていた薬草を調合する音が聞こえる。
いつもながら迷いが無く、手際が良い。
しかし、自分の気が逸っているせいか、少しのんびりしすぎではないかと、ウズマキは思った。
「急いで、くれ。レムルスは、男だけど、大丈夫、だから」
「ご、ごめん。大急ぎだね。分かった」
ウズマキの意識は、疲労で朦朧としていた。
やがてペロが奏でる調合の音に安心し、目を閉じた途端に、強烈な睡魔に襲われた。
ペロならレムルスを任せられる。
ウズマキは逆らう事無く、意識を失った。


「バカ!!!」
ウズマキの怒鳴り声を、ペロは甘んじて受け入れようと、覚悟をしていたようであった。
しかしウズマキの、あまりにも強い剣幕を、ペロは受け止めきれず、思わず大きく首をすくめ、涙を滲ませた。
「あれだけ、一日に必要な分は、蓄えを食べて過ごせと約束したのに!」
「ごめんなさいッ、ごめんなさいッ」
「ふん! どうせ、また私が手ぶらで帰ってくるとでも、思ってたのだろう!」
「ち、違うもん。でも、もし、だよ? もしも、ウズマキが帰って来て、お腹空いてるのに、何も無かったら……って」
「ペロ! おッ、まッ、えッの、そういう、とっ、こっ、がっ、私の誇りを傷つけているって、何度言えばわかるのだ!」
水路を抜けた先の寝床で、ウズマキが長い睡眠の後に目を覚ますと、ペロの姿は無かった。
水路を戻り、拠点の入り口側に出ると、すぐにペロと遭遇した。
レムルスの姿を探したが、見当たらなかった。
ペロから、無事レムルスの毒が抜けつつある事と、レムルスが昨晩泊まった小さな岩穴へ荷物を取りに戻った事を聞き、安心した。
その時、ウズマキはようやく気がついた。
瘦せこけたペロの姿。
それを見て、ウズマキの怒りが爆発したのだった。
「もう、いいから、黙ってじっとしていろ! 泣くな!!」
泣きたいのは私の方だ、と、ウズマキは言いたかった。
ほとんど、蓄えを口にしていないのだろう。
空腹によって、ただでさえ細いペロの手足と頬の肉は、一回りも二回りも削ぎ落されており、浮いたあばらが痛々しい。
実際、レムルスが居なければ、ペロの言った通り、何も調達できず、戻らざるを得なかっただろう。
否、自分はここまで帰る事すらできず、自分を待つペロと共倒れすら、有りえた。
自分を慮ってくれたペロの優しさに。
飢えた身体でもレムルスを快方してくれたペロの強さに。
そしてレムルスと出会えた幸運に。
ウズマキは涙を流すのを、必死にこらえなければならなかった。
そのような事よりも、と、ウズマキは、水路奥の寝床にある、ペロが無理に節約した蓄えを、急ぎ取りに戻ろうとした時。
「レムルス!」
ペロが戻って来たレムルスの姿を見て、安心しきったような声で叫んだ。
それが少し、ウズマキにとっては複雑だった。
自分が眠っている間の事は、まだ詳しく聞けていない。
レムルスは、たくさんのリンゴとストロベリーが詰まった背嚢を2つ、難なくここまで運んで来た。
「わぁ……レムルス、すごいね。力持ちだね」
ペロは目を細くして、レムルスの膂力に感心をしていた。
「ペロ、お前はそれどころじゃないだろう。早くリンゴを食べろ。いや、まずはストロベリーの方が柔らかくていい」
「りんご? すとろべりー?」
「あぁ、レムルスが持っている荷物の中は、全て食料だ。私とレムルスが、二人で採ったんだ」
ウズマキは胸を逸らし、やや、二人で、という部分を強調した。
「すごいねぇ。ウズマキは、すごいねぇ。レムルスも、すごいねぇ」
レムルスが、丁寧に荷物を、ウズマキとペロの前に置いた。
「さぁ、まずは食べよう。レムルスも、無理はしていないか? 毒だって、まだ抜けきっていないだろう?」
「大丈夫だよ。ね。レムルス」
レムルスは、大きく頷いた。
ウズマキは、ペロの毒抜きに関する手際を誇らしく思いつつ、また複雑な気持ちになったので、軽くペロの肩を小突いてしまった。
「むぅ。ウズマキは、そうやってすぐペロのこと、叩く」
「レムルスを信用しろとは言ったのは私だが、お前は少し素直すぎる。男を簡単に信用するな」
「ウズマキの言う事は、いつも難しいんだよぅ」
「いいから早く食べろ。これがストロベリーだ」
ペロは、慎重に、ストロベリーを口に入れ、咀嚼した。目がゆっくりと細く、垂れ下がっていく。
「もぐもぐ……すごいねぇ。すとろべりー。とても甘くて、おいしいねぇ」
「たくさんあるぞ。腹いっぱいになるまで食べろ」
「うれしいねぇ。ウズマキが帰って来てくれて、うれしいねぇ……」
ペロが、大粒の涙をこぼし始めた。
ウズマキも、目的を果たした達成感や、ペロとレムルスへの感謝が混ぜこぜになり、もらい泣きをしそうになったが、ぐッと堪える。
「……レムルス。改めて紹介する。この泣き虫がペロだ。薬草の調合や食料の保存以外は、頼りない奴だが、よろしく頼む」
「ひどいねぇ、ウズマキは、口が悪いねぇ……もぐもぐ、おいしいねぇ……」
レムルスはそんな二人を、穏やかな口元と視線で眺めていた。