04-01 秋の回顧

季節は秋。
険しい崖の上に、山羊がいた。
立派な成体の山羊は、他の生き物が足も置けないような崖の悪路を、軽々と移動する。
だが、警戒は怠らない。
自分以外の生き物が居ないか、頻繁に鼻を上げ、確認をしていた。
小さな生き物であれば、容易く踏み殺せるような立派な蹄で土を搔き分け、岩山に生えた貴重な草を食む。
昼間、この縄張りで、山羊には天敵が居なかった。
「ピギィ!!」
山羊の断末魔。
厚い毛皮を長槍が突き破り、その心臓を的確に貫通していた。
山羊が通った後を身軽に駆け抜け、一人の少女が山羊の前まで、慎重に近づいた。
少女の名は、ウズマキといった。
両の手足は夏の頃と比べ、よりしなやかに、より精悍に、引き締まっていた。
ウズマキは、山羊同様、目で、耳で、肌と鼻で、周囲への警戒を怠らぬまま、山羊の絶命を確かめた。
「…………ふぅ」
ウズマキは、達成感よりもはるかに大きい安堵感で、微かに震えながら、ため息を吐いた。
ようやく一人で、獣を仕留める事に成功したのだった。
髪は腰辺りまで伸びていたが、今日に至るまでの日々は、一日があっという間に過ぎていった。
(よく、生きていられたものだ)
ムムに作ってもらった耳飾りを撫でる。
自嘲ではなく、心底、自分へ向けた褒め言葉であった。
それほど、ウズマキの今日に至るまでの日々は過酷であった。

夏の記憶。
朝、拠点の外に出ると、既にレムルスが立っている。
何の説明も無く、レムルスが駆け、それにウズマキが付いていく。初日からそうであった。
走り、崖を駆け下り、岩肌を登る。
それも、普段ウズマキが通ろうとも思わぬような険しい道ばかりであった。
ウズマキにとって、常に決死の覚悟を必要とした、行軍訓練だった。
汗まみれ、傷だらけで拠点に戻ると、食事の準備をしているペロを無視して、奥の寝床まで必死に辿り着き、眠る。
朝目が覚め、ペロが作ってくれた食事を口に放り込み外に出ると、やはり、レムルスが立っている。
レムルスが駆ける。
それをウズマキが追いかける。
その繰り返しを、20と少し夜を数え、夕食をとる余裕ができ始めた頃だった。
朝、やはりレムルスが立っていたが、どこで採ったのか、小さな木の板と短い棒を用意していた。
ウズマキは武器だと思った。
ようやく戦いの訓練が始まると、ウズマキは勇んだが、それはすぐに落胆へと変わった。
レムルスは棒の先端を、木の板にこすりつけ始めた。
ウズマキは、レムルスが何をしているのか、全く理解ができなかった。
やがて木の板から、白い雲のようなものが生まれた。
レムルスは即座に、白い雲が出ている元を木くずで覆い、息を吹き込んだ。
すると、レムルスの手から赤い花が咲いた。
それをレムルスは、「ヒ」と呼んだ。
触ろうと恐る恐る手を近づけただけで、その温かさが、熱さが、感じられた。
「ヒ」は、ウズマキにとって驚きの現象であったが、ペロはさらに大きな衝撃と、閃きを受けていたようだった。
しかしレムルスはすぐに足で「ヒ」を踏み消してしまった。
レムルスは、棒と板をウズマキに渡した。
その日から、ウズマキは「ヒ」を起こすために、一人格闘をすることとなった。

04-02 師弟

火を起こす事は、簡単では無かった。
レムルスは最低限度の事を教えてくれたが、どれだけ早く棒を動かしても、どれだけ力を込めても、煙が出ない。
だが、3つの夜を数える間、ひたすら棒を擦り続けていると、ついに煙が上がった。
ウズマキは、必死になって煙を大きくしようと手を動かしたが、煙はすぐに消えてしまった。
棒には、ウズマキの手豆が潰れた血が、こびりついていた。
不安そうなペロに、ウズマキは言った。
「ペロ! 見たか!!!」
煙が消えても、落胆の色を全く見せず、むしろ目標に近づいた事を喜ぶウズマキに、ペロは感嘆した。
そこからは早かった。
両手の力だけではなく、上半身と下半身のバランスを意識しながら、背中の筋肉も意識して手を動かす。
その日が暮れるまでに、ウズマキは一人で火を起こせるようになった。
するとまた、どこで採ったのか、レムルスが山羊を一頭仕留めて、帰って来た。
驚愕し、怯えるウズマキとペロを尻目に、拠点の入り口でレムルスは、手際よく山羊を解体した。
レムルスの一挙一動を見逃さぬよう、ウズマキは集中した。
ペロは火を絶やさぬよう、薪や枝を、慎重に足していた。
山羊の解体がひと段落すると、レムルスは山羊の肉を火にくべた。
「あッ………」
その香りは、少女たちの空腹を激しく加速させた。
ウズマキが起こした火で、レムルスが焼いた肉を、まずペロが口に入れた。
ウズマキは単純に、初めて食べる獣の肉が怖かったのだ。
「ふぎゅ!」
ペロの口から、ウズマキが聞いたことも無いような声が漏れた。
2人の少女はそれから、夢中になって焼かれた羊肉にむさぼりついた。

その翌朝も、やはりレムルスは立っていた。
手には、ペロの身長ほどもある長い棒を握っていた。
ウズマキは、もはや、どこから採って来たのか問う意味も無いと思った。
先端は尖っていたが、火を起こすための短く細い棒と違ったのは、明らかに命を絶つ事を目的とした鋭さと太さだった。
ウズマキは、その長い棒を無言で受け取った。
「仕留める時と、仕留めた後」
二言、レムルスは呟いた。
この頃には、レムルスは身振り手振りを交えなくても、ほとんどの会話ができるようになっていた。
口数は本当に少ない。ペロはそれが少し不満そうだった。
「仕留める時と、仕留めた後」
口数の少ない男が、二度繰り返した言葉に、ウズマキはゆっくりと頷いた。
獣を仕留めるためには、その二つが、重要なのだと、理解した。

まず、ウズマキは、山羊を見つけられなかった。
この辺りで見かける事自体が極稀で、しかも、そういった山羊は、堂々と自らの縄張りを越えてくる狂暴な成体だった。
狩りに、必要以上の危険を犯す必要はない。
そんな山羊をもし見つけても、隠れるか逃げるかして、やり過ごせば良いのだ。
なぜかは分からないが、そのような合理的な考えを、ウズマキはレムルスとの訓練で、身に着けていた。
行軍訓練や火を起こす事に、何か手がかりがあったのかもしれない。
もしくは、「生きるために」を考える時間が多かったからかもしれない。
山羊の狩りは、レムルスは付いて来ず、一人だった。
ウズマキは、岩山を駆けまわり、手ごろな山羊の縄張りを探す。
しかし、夜には拠点に戻らねばならないから、そう遠くまではいけなかった。
それでも、自分で驚くほどウズマキの世界は広がっていた。
一日に移動できる距離が、以前の三倍以上になっていると感じた。
それでも、レムルスが居ない不安からか、足元に迷いが生じ、何度も崖から落ちかけていた。
その都度、ウズマキは自分を戒めた。
一日目。
山羊の縄張りを見つける事はできなかった。
その日の夕食は、ペロが作った肉と芋が入ったスープだった。
身体に浸み込む旨さで、力が沸いてきた。
二日目。
山羊の痕跡に、いくつかあたりをつけることができた。
夕食は肉の腸詰だった。
歯ごたえが面白く、何より旨すぎた。
五日目。
ウズマキは、山羊の縄張りを完全にとらえた。
夕食は肉のハーブ焼きだった。
ウズマキは、死ぬ前に食べたいのは、これだと思った。
翌朝も、レムルスは立っていなかった。
そもそもこの五日間、姿も見ていない。
「今日、勝負する」
ウズマキの決意が実るよう、ペロは祈りながら、新しい泥を塗ってくれた。

(…………本当に、よく生きていられたものだ)
ムムからもらった耳飾りを撫でながら、ウズマキは回顧を終えた。
絶命した山羊に、祈りを捧げようと思った。
ビュン。
ウズマキは、瞬時に頭を大きく下げた。
祈るためではなく、上を通り過ぎていった何かを避けるためだった。
少女は、振り返らずに、懐かしい匂いのする空間へ、長槍の逆側を突き出した。
受けもせず、避けもせず、黒い仮面の男は、槍の先端が、顔に触れるか否やの距離に、立っていた。
「大物だな。ウズマキ」
「マスター!!」
二人は、師弟関係となっていた。

04-03 狩りの成果

拠点の入り口で、ペロが二人を出迎えた。
「わぁー。おっきぃねぇ。おいしそうだねぇ」
ことさら大げさに、ペロはウズマキの成果を喜んだ。
それでもウズマキは、悪い気がしなかった。
一緒に居るレムルスを見て、ペロは一言「ぷん」とだけ言い、顔を膨らませて、視線をそらした。
「マスター。何も言わず、5日間も姿を見せなかったのだ。ペロは怒っている」
夜を一つ越えることを、一日と呼ぶ。
ウズマキはレムルスから教えられていた。
「すまない」
本当にすまなそうに、レムルスは謝った。
「でも大丈夫だ。ペロの怒りは、すぐ収まる」
「……もう。そんなにペロは、簡単じゃないんだからねぇ。ウズマキ、疲れている所にごめんなさいだけど、火をつけてくれる?」
「お安い御用だ。それと、今日の夕食だが……」
「香草焼きにするねぇー」
「あぁ。昨日のそれを、マスターにも食べさせてやりたい」
「あーい。頑張って作るから、レムルスもたくさん食べてね!」

「さぁ、召し上がれぇ~」
ウズマキは、昨日とは肉の厚みが大きく違うことに気づいた。
まだペロは、レムルスに怒っているのだろうか。
「ペロ。悪い。マスターにはもう少し大きな肉を、切り分けてくれないか」
「ウズマキ、大丈夫だよ。味は昨日と同じか、それよりもおいしいから」
昨日よりもはるかに薄く切られた肉が、焼かれて並んでいる。
小さな石の器には、やや濁った液体が注がれていた。
「そのお汁に、お肉をちょんちょん、って付けて、食べてみてね」
「お汁にちょんちょん、か。分かった」
食欲をそそる、良い香りのする水であった。
迷いなく。ペロは薄い肉を手で掴み、液体につけ、口に放り込む。
「はぎゅ!!」
衝撃の味だった。
以前、ペロが出したような変な声も出てしまった。
肉自体も絶妙な火加減で焼けているが、この液体ががすごい、とウズマキは思った。
「は、ハーブを水に混ぜたのか? いや、この甘さは、それだけじゃない。りんごだ!」
「薄く切った方が、たくさんお汁を絡められるでしょ?」
「あぁ……んぐんぐ、そうだな、んぐんぐ……」
夢中でウズマキは肉を汁につけ、口に運ぶ動作を繰り返した。
「はい。レムルスも食べてみて」
レムルスは、頷き、肉を食べた。
その肉は、ウズマキが一人の力で採り、ウズマキが起こした火で、ペロが工夫をし、焼かれた肉だった。
一口、口へと運ぶ。
ふと、レムルスの頬が緩んだ。
「あ~。やったぁ。レムルスが笑ったぁ!」
「あぁ、うん。んぐんぐ、それほどに、この肉はうまいのだ……ペロ、おかわり」

火は不思議だ。
触れると熱い。痛みの塊りだ。
しかし、ゆらゆらと動いている赤い火花を眺めていると、心が安らぐ。
食事を終え、もはや慣れた手つきで薪をくべながら、ウズマキは対面の火花とレムルスを眺めて、ぼんやりとしていた。
「でも、ウズマキの言う通りだったね」
食事の片づけを終えたペロが、焚火の囲いに参加した。
「レムルスは、必ず帰ってくるって。どこにも行かないって」
「そうだ。マスターは、この5日間、私が山羊を探している間も、ずっと私を見ていたのだ」
レムルスは驚いた。
「気づいていたのか?」
レムルスは、最新の注意を払い、ウズマキに気づかれぬよう、潜んでいたつもりだった。
「ううん。全く気がづかなかった。でも、マスターが私から目を離すわけないと、思っていた」
そしてウズマキは、口を尖らせる。
「だから、この前みたいに私は勘違いをした。アレは全部マスターが悪い」
うぅむ、と、レムルスは唸った。
ペロは笑った。
「あの後、ウズマキがレムルスに戦いを教えて欲しいってお願いした時、やっぱり、って思ったよ」
「え、なんで?」
「えへへ……」
少し、ペロは悲しそうな顔をした。
ろくな返答をもらえなかったが、ウズマキはどうでも良かった。
今日はゆっくりと休みたかった。
「マスター。今日こそは、マスターも一緒に、拠点の奥で一緒に寝ないか?」
「あ、ペロもそれ、言おうと思ってた」
しかし、レムルスはゆっくりと首を振った。
どれだけ夜を重ねても、レムルスは決して拠点の奥へ入ろうとはしなかった。
「……分かった。おやすみ、マスター」
「ふぁぁ。おやすみ。レムルス」
片手を少し上げ、手のひらを見せ、レムルスは二人の気づかいに応えた。
既に日は暮れていたが、死者の気配は周囲に無かった。
火は不思議だ。死者をも遠ざける力があるようだ。
まるでレムルスのようだ、と、ウズマキは思った。