02-01 朝の空気

「私が安全を確認する。もう少し待て」
ウズマキは、下で自分を支える仮面の男に命令をした。
日差しに照らされた周囲に、死者の気配はない。
しかし、木々がひしめく森の中には、闇のように薄暗い場所がいくつか存在している。
ウズマキにとって、森で迎える初めての朝であった。
だからこそ、念入りに観察し、他者の気配を目と鼻で探った。
朝、森の空気は清々しく、緑の香りは心地よい事を、少女は知った。
そのせいか、先ほどまで穴の中で嗅いでいた、自分と男の体臭が入り混じった匂いが、鮮明に思い出された。
既に、男の匂いは気にならなくなっていたが、旅中で水浴びもしていない自分の体臭を男がどう感じたのか、少女は初めて気になった。
少女は思わず下を向いた。すると、男も同じように下を向いていた。
「……重いか?」
どうでも良い事を、少女は質問をしてしまったと思った。
男はゆっくりと頭を振った。
穴の中で、男の肩に足を乗せ、少女は立っている。
屈強でいてしなやかな男の肩は、揺れること無くしっかりと少女の全体重を支え、安定していた。
少女が少しでも動くと、より少女が立ちやすい態勢になるよう、男も少し身体をずらす。
その繊細かつ絶妙な動きが、なぜか少女の頬を熱くさせた。
これまでの事も含め、思いやりのある男だと思った。
世の中には、こんな男もいるのだ。
略奪者のような男たちばかりでは、ないのかもしれない。
そんな男が、自分に好意を寄せていると思えば、なおさら気が良くなる少女であった。

「貴様には、帰る家はあるのか? 家族や仲間は?」
穴から這い出た後、ウズマキは、自分の背嚢にリンゴとストロベリーを丁寧に敷き詰めながら、仮面の男に問いかけた。
男と少女との間に、共通の言葉は少ないものの、少なくとも男は、少女の言葉を概ね理解できているようだった。
男は思い悩むように深くうつむいた。
少女は手を止めて男の仮面を眺めたが、即答のできない質問をした、という事以外は、何も伺い知れなかった。
「……では、私の家に来ると良い」
少女は男の仮面から視線を逸らし、昨晩、そしてつい先ほどにも、頭の中で幾度となく反芻していた言葉を、口に出した。
「あ、安全な場所なのだ。見れば誰もが必ず驚く。仲間以外で連れて行くのは貴様が初めてだ」
少女は再び手を動かしながら、やや早口になっている自分に気が付いた。
「だが、わ、私は、貴様を完全に信用したわけではないぞッ。これからの、貴様の心がけ次第である事は、念を押して言っておく」
余計な事を言ってしまったと、少女は後悔して、顔を上げた。
すると、男はじっと、少女の背嚢に収まりきらないであろう、たくさんのリンゴを眺めていた。
少女は、先ほどの言葉を柔らかく訂正すべきかどうか、悩んだ。
その間に、男は大きく頷き、決心したようだった。
少女の分のリンゴを、男は自分の背嚢に詰め始めた。
「良い心がけだ」
少女は偉そうに言ったつもりだったが、明らかにその声は弾んでしまっていた。

02-02 帰路

しかし、ウズマキは帰路への方角を見失っていた。
想像以上に、森の奥へと入り込んでいた。
ところが、仮面の男は目印を付けていたようで、2人は迷いなく、少女が見覚えのある森の入り口へと辿り着いた。
ほっとする半面、少女はいくつかの疑問の答えに気づかざるを得なかった。
「貴様ッ、こんな場所から、私を見張り続けていたのか!」
男は素直に、それでいて申し訳なさそうに、背をやや丸めながら、頷いた。
「ふ、ふん。私が『りんご』を採れない様は、さぞ滑稽であったろう。だが……やはり、最初の夜、私を救ってくれたのは、貴様だったのだな」
どこか悔しそうに、少女はなかなか言い出せなかった言葉を吐き出した。
男はややためらいがちに、やがて観念したように、頭を縦に下げた。
死者の群れから夜の間、自分をどう守り続けたのか、少女には想像も付かない。
しかし、この男なら、そのような事もやってしまいそうな、頼もしさを感じ始めていた。
「大きな貸しがまた一つ、貴様にできてしまった」
そう言いながらも、少女は必要以上に胸を張ってみせた。
「私は、貴様の事を何も知らない。だが、私は誓う。必ず貴様に貸しを返す」
男は首を振ろうとしたが、結局頷いた。
少女のまっすぐな決意に、押し切られた形のようだった。
ウズマキは、頬に体温が集まっていくのを感じた。
今すぐ、男に貸しを持ち出され、結婚したいと求められたら、自分は断る事ができるものだろうか。
男は何も言わず、少女に道案内を求めた。
「よ、よしッ。ここから先は、図体のでかい貴様には厳しい道のりになるぞ。私がしっかりと助けてやるから、安心しろ」
岩山地帯は、少女の庭であった。
ただ、浮かれていた少女は、行きとは違い、想定以上の収穫がいかに枷となるかを、はるかに甘く見積もってしまっていた。

ウズマキの見込み違いは、3つに及んだ。
一つ、身軽な状態で岩山地帯の下るのはお手のものであったが、重たい荷物を背負っては、登るために相当な握力を必要としたこと。
二つ、目的の一割も進まぬ内に、余力が尽きてしまったこと。
三つ、仮面の男は、少女を背負い、果実が詰まった背嚢を2つ両手に持ちながら、軽々と岩山を登り続けていること。
少女は、密着した胸で、男の逞しい背中を、痺れた細い腕で、固く広く尖った肩を、それぞれに感じていた。
少女が差した方向に進む男の、一つ一つの動作には無駄が無い。
走り、飛び、次に握る小岩を選び、すぅっと引き寄せて登る。
早い。男の余力はまるで無尽蔵にあるようだった。
帰路の序盤には、明らかに歩調を合わせてくれていたのであろう。
しかも、少女のお腹がすき始める頃に、ストロベリーを取り出して、少女に差し出すほぼの心配りであった。
男が皆、この男のようなものでは無い事を、少女は知っていた。
少女にとって、目撃できた数少ない世の男は、皆粗暴で、力任せで、怠け者で、口汚い言葉しか吐かないものだった。
男が一足踏み出す度に、一つ小岩を上がる度に、少女の価値観が塗り替えられていく。
同時に、垢と汗まみれで、身体の文様も既に消えつつある自分のみすぼらしさが、もどかしかった。
早く、汗と泥にまみれた身体を洗いたい。
油が浸み込んだような髪をすきたい。
何より、身体の文様をペロに塗り直してもらいたい。
強い使命を自らに課している自分が、そんな浮かれた気持ちを恥じる気持ちは、もちろんあった。
「良い心がけだ……うん、良い心がけ……だ」
だがそれを、頭の中から完全に消す事は、今の少女にはできなかった。

森から出立しようとした際、重い荷物を背に感じ、ウズマキは拠点としている家に戻るまで、三泊と予測した。
岩山を登り始め、百歩も進まぬ内に、四泊以上の行程になると、覚悟した。
全身が汗に覆われ、両手両肩の感覚が無くなった時には、拠点へ戻るために、旅の目的であった貴重な果実を減らす事まで考えていた。
それが、仮面の男に荷を預け、さらには背負われて進む今となっては、日が沈まぬ内に、拠点までもう目と鼻の距離にまで辿り着いていた。
男の身体能力は、驚愕であった。
少女はもう、自分が男より優れているものなど、無いのではないかと思った。
そして、それが誇らしいとさえ、思い初めていた。
「この辺りだ」
少女は男の背から降りた。
「今日はあの岩穴で泊まろう。狭い横穴だが、昨日掘った穴よりは広い。疲れたろう。りんごも、すとろべりーも、好きなだけ食べてくれ」
もう既に、拠点辺りを視界に収める所まで来ていたのだが、流石の男でも、日暮れまでには間に合わないと、少女は判断した。
男の疲労も気になった。大量の荷物を背負い、ほとんど小休止すら取っていなかった。
やや、肩で息をしていた男だったが、岩穴までリンゴを運ぶと、男の背嚢から二つを選び、一つを少女に差し出した。
「私はいらない。疲れてないから、腹も空いていない。だいたいそのリンゴは、貴様の取り分ではないか」
しかし、男は差し出した手を引かなかった。少女は観念して、リンゴを受け取り、齧った。
爽やかな酸味と甘さが、疲労が蓄積された身体に浸み込んでいく。早くペロにも、味合わせてあげたかった。
少女がリンゴを口にしたのを確認した後、男もリンゴを少し齧った。
男がゆっくりと咀嚼して飲み込む。自分には無い立派な喉ぼとけが動くのを眺めながら、少女の胸は高鳴った。
「入り口は私が塞いでおく。貴様は、ほら、早く楽にしてくれ」
少女を背から降ろした時には、やや肩で息をしていた男であったが、既に呼吸は落ち着いていた。
それでも、少女はあれこれと世話を焼いて、男を岩穴の少しでも良い場所で、休ませようとした。

02-03 男の名

ウズマキが岩穴の入り口を塞ぎ終えた後、夜が訪れた。
外からは既に死者の声が聞こえ始めているが、やや遠い。
岩穴自体が、死者が登りにくい場所にあるからだった。
「風向きも悪くない。ここも良い場所だろう。しかし、私たちの家はこんなものではないぞ。早く貴様の驚く顔が、見たいものだ」
小声で少女が呟いた。
入り口は既に塞いでおり、岩穴の中は深い闇だったが、2人とも目は暗闇に慣れており、お互いの場所は分かっている。
より地面が滑らかで眠りやすい場所を、少女は男に譲り、自らは、やや尖った石が目立つ奥の場所に陣取っていた。
男は、穴の入り口の方に、ずっと視線を向けている。
少女は、厚意を素直に受け入れたのは、入り口に近い場所で自分を守るつもりなのかもしれない、と思った。
心配性な男だ。
心の中で少女は笑った。
「仲間が、私を待っている。名はペロという。採集は私のように得意では無いが、花が好きな、優しい子だ。どんな食材でも、いつも工夫しておいしく出してくれる」
闇の中で、男の視線を感じない事が、少女の口を滑らかにさせた。
「ペロは、食材を保存するのも得意だ。だが、食べられないし、薬にもならない花や草を干すのは、私には理解できない」
男は、仮面を少女に向けぬまま、小さく相槌を繰り返しているようだった。
「貴様と出会った場所とは違い、この辺りは草木も、ほとんど無い。結局、周辺の食料になるものは、採りつくしてしまった」
「しかし、貴様と一緒なら、また森に採集へと出かけられる。そうだ。次はペロも一緒に連れて行こう。ペロは……」
少女は顔をうつむいた。
「もう一人、仲間が一緒にいた。でも…………略奪者に、連れ去られてしまった」
それでも、少女の声は、力強かった。
「私は、必ず、仲間を、ムムを取り戻さなくてはならないのだ。貴様のように早く、貴様のように強く、なって……」
顔を上げると、少女は驚いた。仮面の男が音も無く、少女の目前に居たからだ。
ドンッ。
突然男は、少女の顔すぐ横の壁に、勢いよく手を突いた。
「あッ…………」
少女は、小さな岩穴の奥で、男に逃げ道を塞がれた形になっていた。
出会った頃であれば、即座に男を突き飛ばしていたであろう。
だが、今はもう、これから男が自分に何をするつもりなのかを思い、混乱と不安と期待で、頭の中が真っ白になっていた。

男の名

「ん…………ん!?」
男がゆっくりと壁から手を離すと、小さな蜘蛛が潰れていた。
いつもなら気が付かない少女では無かった。
危うい所であった。
この辺りでは稀に見る種類の蜘蛛であった。
「貴様! 手を出せ! 早く!」
少女は自らの油断を激しく責めた。その蜘蛛は、小さいながらも強い毒を持っていたからだ。
少女は男の腕に掴みかかり、男の手を確認した。
男の手の平には、岩山登りのためについた小さな傷が、無数にあった。
「痛むぞ、我慢しろ!」
迷わず、少女は男の手にかぶりついた。
そして、男の手から毒を必死に吸い出す。
男は戸惑いながら、しかし、自分の身体が変調をきたしている事に気づいたようで、少女のなすがままになっている。
「んッ……んッ……ペッ………んッ、んッ……ぺッ………」
少女は唇を押しつけ、強く吸っては吐き、吸っては吐きを繰り返しながら、男の容態を観察した。
傷口から毒が浸み込んでいるのであれば、もう遅い。
既に男の手からは、ひどい熱が発せられていた。
僅かだが、痙攣も始まっている。
男は二、三度首を振り、大丈夫だ、と、仕草で少女に伝えようとしていた。
「この毒は、朝には強い熱が出て、動けなくなる。次の夜にはひどい激痛で、身体が裏返る」
少女は、毒が浸み込んで無い方の、男の手を握った。
「でも大丈夫だ。家に戻れば薬草がある。ペロが作った薬草だ。よく効く。必ず治る」
男は、申し訳ないと、身振り手振りで伝えたいようだった。
しかし、それすらもままならないほど、毒が身体にまわりつつあるようであった。
「貴様は大丈夫。私がいる。貴様は大丈夫だ。私が死なせない。私の家に連れて帰る」
胸の中は激しい動悸に襲われていたが、少女の自分の声を必死に落ち着かせていた。
「お前の名は? 名前。私の名はウズマキ。お前の名を教えてくれ、頼む」
少女は、男の口元に耳を近づけた。
「れむるす? レムルスというのだな。つらくなったら、私の名を呼べ。私はお前の名を呼び返す。お前が私の手を握れば、握り返す」
「いいか、レムルス。朝まで、私の手を握り続けろ。ウズマキがお前を、必ず守る」