01-01 少女と森

少女と森-鋼鉄のレムルス

近づいてみれば、圧倒的な緑だった。
その全てが草であり、葉であり、苔であることが、俄かには信じられない。
少女が育った山岳地帯において、緑は点在すらしない、貴重な景色だった。
極まれに、地表へと顔を出した植物は、逞しさと幸運の象徴ですらあった。
だからして、少女の細く、未成熟な肢体には、芽の成長を模した文様が泥土で描かれていたのだが
この場所に辿り着くまでの過程で身体を酷使し、汗を幾度と無く湧き流した事で、泥土の文様は薄くなっていた。
少女は、森と呼ばれる自然の入り口に、生まれて初めて足を立てているのだが、感慨は無い。
耳を覆いたくなるような、数えきれない鳥類の鳴き声。
頑強な木の幹たち。
真昼にも関わらず、どこまでも続く緑の闇。
負けるものか。奪われるものか。
少女は少女の事情により、自らは狩られる側で無いと、奮い立たねばならなかった。

目の良い少女であるから、果実と思われるものは、いくつも簡単に見つけられた。
だが、どの果実も少女の背より何倍も高い場所に実っていた事が、問題となった。
木の樹皮へ実際に触れると、見た目以上に滑らかで、爪も立てられない。
足元に落ちている木の枝を幾度と無く投げつけたが、目標に命中しても落ちる気配は無い。
もっと低い位置に実っている果物を。手の届く位置にある食料を。
森の奥へと足を進める少女は、既に日が暮れ始めていることに、気がつかなかった。
自分より背の低い草の道を選び、搔き分ける。
木や高低差に阻まれれば、来た道を戻る。
それを交互に繰り返すうちに、帰路の方角は朧げになっていった。
木々の影が濃くなり、目が闇に慣れ始めた頃。
少女は、自身がようやく焦らなくてはならない状況である事に気がついた。
いつの間にか、小動物らの鳴き声は途絶えていた。
日が間もなく落ちる。
潜まなければならない。
生ぬるい風に顔を撫でられると、べっとりとした汗で張り付いていた髪が一房、少女の頬から剥がれた。
死者の時間が始まろうとしていた。

背の倍は高く伸びた草むらに身を隠し、周囲を伺う。
かすかに聞こえる足音。唸り声。
既に腐臭は、はっきりと鼻腔で感じられる。
何の準備も無く、夜を迎えるのは少女にとって初めての体験だった。
激しい自己嫌悪に眩暈がした。
両頬を叩き、目を覚ましたい衝動が芽生える。
また、「彼ら」は物音に敏感である以上に、生者の匂いに引き寄せられる。
身体に塗る香り消しの泥土は、既に底を尽きかけていた。
夜を越えるために、穴を掘るか見つけるかしなくてはならなかった。
地面に這いつくばり、迂闊な自らの頬を叩く代わりに、拳を強く握りしめる。
鋭い爪が手の平に突き刺さると、いともたやすく出血したように思えた。
一かけらも登られなかったあの木の幹と比べれば、自分はなんと弱く、脆いのか。
微動だにせぬまま、己を責める感情だけで、少女の目はかすかに赤く、充血していった。
その視界に、闇夜でも明確に輝く、赤い塊がいくつも映った。
少女がその、スイートベリーの群生を見たのも、初めての体験であったが、暗闇でも明らかに果実である生命の輝きだと分かった。
乾ききった口内に唾液が沸き、怒りで忘れていた、空腹と疲労に全身を支配される。
十歩も這いずれば届く距離に、瑞々しく大きな実が三つ、四つ、いやもっと。
今は動けない。しかし、食べねば体力がもう、もたない。
いや、そもそも、こんな場所で夜を越えられるわけが無い。であればいっそ、果実の味を確かめた後に、死者の餌食になっても良いのではないか。
(…………ペロが、私を待っているのに?)
少女は、自暴自棄な考えを思いついてしまうほど、自らが追い詰められていることに気づいた。
しかしそれは、逆に少女を冷静にした。
身に着けている、少し大きめの耳飾りに、そっと触れる。
緑の入り口にさえ辿りつければ、さらに距離はあるが、潜む場所の見当はいくつか付けてあった。
少女は、決めた事を実行するために、勢い良く立ち上がろうとする。
しかし実際には、疲労により二度もよろけながら身と起こし、顔を上げると、既に周囲は死者に囲まれていた。
そのうちの一体と、目があったかのように思えた。
決意は変わらない。この期に及んでは、潜むのではなく、緑の闇を駆け抜けるのだ。
生き延びるための最適解ではない。それは、少女の性格だった。