02-03 男の名

ウズマキが岩穴の入り口を塞ぎ終えた後、夜が訪れた。
外からは既に死者の声が聞こえ始めているが、やや遠い。
岩穴自体が、死者が登りにくい場所にあるからだった。
「風向きも悪くない。ここも良い場所だろう。しかし、私たちの家はこんなものではないぞ。早く貴様の驚く顔が、見たいものだ」
小声で少女が呟いた。
入り口は既に塞いでおり、岩穴の中は深い闇だったが、2人とも目は暗闇に慣れており、お互いの場所は分かっている。
より地面が滑らかで眠りやすい場所を、少女は男に譲り、自らは、やや尖った石が目立つ奥の場所に陣取っていた。
男は、穴の入り口の方に、ずっと視線を向けている。
少女は、厚意を素直に受け入れたのは、入り口に近い場所で自分を守るつもりなのかもしれない、と思った。
心配性な男だ。
心の中で少女は笑った。
「仲間が、私を待っている。名はペロという。採集は私のように得意では無いが、花が好きな、優しい子だ。どんな食材でも、いつも工夫しておいしく出してくれる」
闇の中で、男の視線を感じない事が、少女の口を滑らかにさせた。
「ペロは、食材を保存するのも得意だ。だが、食べられないし、薬にもならない花や草を干すのは、私には理解できない」
男は、仮面を少女に向けぬまま、小さく相槌を繰り返しているようだった。
「貴様と出会った場所とは違い、この辺りは草木も、ほとんど無い。結局、周辺の食料になるものは、採りつくしてしまった」
「しかし、貴様と一緒なら、また森に採集へと出かけられる。そうだ。次はペロも一緒に連れて行こう。ペロは……」
少女は顔をうつむいた。
「もう一人、仲間が一緒にいた。でも…………略奪者に、連れ去られてしまった」
それでも、少女の声は、力強かった。
「私は、必ず、仲間を、ムムを取り戻さなくてはならないのだ。貴様のように早く、貴様のように強く、なって……」
顔を上げると、少女は驚いた。仮面の男が音も無く、少女の目前に居たからだ。
ドンッ。
突然男は、少女の顔すぐ横の壁に、勢いよく手を突いた。
「あッ…………」
少女は、小さな岩穴の奥で、男に逃げ道を塞がれた形になっていた。
出会った頃であれば、即座に男を突き飛ばしていたであろう。
だが、今はもう、これから男が自分に何をするつもりなのかを思い、混乱と不安と期待で、頭の中が真っ白になっていた。

男の名

「ん…………ん!?」
男がゆっくりと壁から手を離すと、小さな蜘蛛が潰れていた。
いつもなら気が付かない少女では無かった。
危うい所であった。
この辺りでは稀に見る種類の蜘蛛であった。
「貴様! 手を出せ! 早く!」
少女は自らの油断を激しく責めた。その蜘蛛は、小さいながらも強い毒を持っていたからだ。
少女は男の腕に掴みかかり、男の手を確認した。
男の手の平には、岩山登りのためについた小さな傷が、無数にあった。
「痛むぞ、我慢しろ!」
迷わず、少女は男の手にかぶりついた。
そして、男の手から毒を必死に吸い出す。
男は戸惑いながら、しかし、自分の身体が変調をきたしている事に気づいたようで、少女のなすがままになっている。
「んッ……んッ……ペッ………んッ、んッ……ぺッ………」
少女は唇を押しつけ、強く吸っては吐き、吸っては吐きを繰り返しながら、男の容態を観察した。
傷口から毒が浸み込んでいるのであれば、もう遅い。
既に男の手からは、ひどい熱が発せられていた。
僅かだが、痙攣も始まっている。
男は二、三度首を振り、大丈夫だ、と、仕草で少女に伝えようとしていた。
「この毒は、朝には強い熱が出て、動けなくなる。次の夜にはひどい激痛で、身体が裏返る」
少女は、毒が浸み込んで無い方の、男の手を握った。
「でも大丈夫だ。家に戻れば薬草がある。ペロが作った薬草だ。よく効く。必ず治る」
男は、申し訳ないと、身振り手振りで伝えたいようだった。
しかし、それすらもままならないほど、毒が身体にまわりつつあるようであった。
「貴様は大丈夫。私がいる。貴様は大丈夫だ。私が死なせない。私の家に連れて帰る」
胸の中は激しい動悸に襲われていたが、少女の自分の声を必死に落ち着かせていた。
「お前の名は? 名前。私の名はウズマキ。お前の名を教えてくれ、頼む」
少女は、男の口元に耳を近づけた。
「れむるす? レムルスというのだな。つらくなったら、私の名を呼べ。私はお前の名を呼び返す。お前が私の手を握れば、握り返す」
「いいか、レムルス。朝まで、私の手を握り続けろ。ウズマキがお前を、必ず守る」